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2008/02/10 日記<横浜F・マリノス>
横浜F・マリノス
横浜F・マリノス(よこはま エフ・マリノス、Yokohama F. Marinos)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。旧名称は横浜マリノス。横浜フリューゲルスが消滅した為、それを残すためにその頭文字のFをとって横浜Fマリノスに名前を変えた。クラブの概要
1991年、Jリーグ加盟。Jリーグ創設時からの加盟チーム(参照:オリジナル10)のひとつである。
ホームタウンは神奈川県横浜市と横須賀市(2005年より)。横須賀市は2005年以前より、下部組織の練習会場として長年利用されていた。
ホームスタジアムは横浜国際総合競技場|日産スタジアムと三ツ沢公園球技場|ニッパツ三ッ沢球技場。近年は、メインとして日産スタジアムをJ1リーグ戦の大部分及びカップ戦等(AFCチャンピオンズリーグ含む)の一部に使用し、残るJ1リーグ戦の数試合(主に平日開催の試合)及びカップ戦等の大部分はニッパツ三ッ沢球技場を利用している。横浜国際(日産)は1998年(かながわ・ゆめ国体開催に伴う)、2000年(2002 FIFAワールドカップサッカー選手権日韓大会に備えた芝生管理)は試合数が制限されていたが、1999年はリーグ戦のホームゲームの全試合が横浜国際で行われた。また、国立霞ヶ丘競技場を使用する場合もある(2006年、2007年は使用なし)。* クラブの法人事務所、練習場などの施設は、横浜市西区_(横浜市)|西区みなとみらいにあるマリノスタウン(2007年1月グランドオープン)に集約されている。
法人事務所は神奈川区新子安から移転した。
練習場は、戸塚区の戸塚トレーニングセンターからの移転である。同地は、元々は横浜フリューゲルスの練習場で、フリューゲルスとの合併以前は鶴見区 (横浜市)|鶴見区の獅子ヶ谷グラウンドを用いていた。横浜国際競技場完成後は、小机競技場|日産フィールド小机(小机陸上競技場。横浜国際の補助トラック)でも練習を行っていた。
本施設の建設に際し、建設費および借地料、さらに成績の低迷に伴う観客動員減などが重なった事で、強化費などの他の部分に影響が及んでいるとされる。実際、2007年、監督として早野宏史を招聘したのには、「安く雇えるから」という理由もある。戦力補強に関しても、世代交代という目標と併せ、即戦力となる選手の獲得ではなく、高卒・大卒・ユース出身選手の獲得、若手育成などを進めていく方針に転換している。また、サポーター向けのサービスにも変更が出ている。
チーム名の「マリノス (Marinos)」は、スペイン語で船乗りを意味する。「F」はフリューゲルス (Fl?gels) の頭文字(詳細は後述)。
チームカラーは「青・白・赤」のトリコロール(三色)。これは元々日産自動車のコーポレートカラーであったものである。各色の意味合いは、青「冷静さと港町・横浜の海」、赤「スポーツに触れ合う場をつくり、皆が誇れるクラブを目指す」、白「皆に支えられ、息の長い活動を続ける、自立したクラブを目指す」である。
クラブの社長は齋藤正治(さいとう まさはる)。東京大学法学部卒。日産自動車で商品開発を担当していたが、2007年4月よりチーム顧問を務め、同年6月に社長に就任した。6月9日の就任会見では、挑戦者としてのリスタート・更なる地域密着・風通しの良いクラブの3本柱、2010年にはホームゲームの年間総入場者数100万人を目標とする、などの方針を発表した。
現在の監督は桑原隆。
伝統的に優秀なディフェンダーが多く、サッカー日本代表|日本代表の守備陣を多く輩出している。また、過去数年、リーグ戦での失点数の少なさにおいても上位に入っている。残留争いに巻き込まれた2001年シーズンにおいても、失点数はリーグ3番目の少なさだった。
2008年6月、下部組織の選手育成・強化を目的にフランスのオリンピック・リヨンと業務提携を結んだことを発表した。エピソード・アラカルト
新規スタジアムのこけら落とし試合をアウェイチームとして迎えることが多い。1993年のJリーグ開幕戦(対東京ヴェルディ|ヴェルディ川崎・国立霞ヶ丘競技場)、2001年の埼玉スタジアム2002オープニングゲーム(対浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ)、同年の札幌ドームのサッカー競技場としてのオープニングゲーム(対コンサドーレ札幌)、これまた同年の御崎公園球技場|神戸ウイングスタジアムのオープニングゲーム(対ヴィッセル神戸)、2005年の千葉市蘇我球技場|フクダ電子アリーナオープニングゲーム(対ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフ千葉)などを戦っている。しかも、これらの試合では一度も負けたことがなく、「こけら落とし無敗神話」とも言われる。また、横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)においては、1998年のダイナスティカップの日本-韓国戦が柿落としであったが、Jリーグの初開催となったこの年の開幕戦・横浜マリノス-横浜フリューゲルスの「横浜ダービー」では、延長戦の末佐藤一樹(のちに吸収合併によりF・マリノスに入団)のVゴールで敗れている。命名権により「日産スタジアム」となった初戦の横浜F・マリノス-ジュビロ磐田でも、ロスタイムに福西崇史(現東京ヴェルディ)のヘディングでのゴールを喫し、敗れている。尚、このゴールは福西がジャンプをした時に伸ばしていた手に当たって決まったゴールではないのかとの疑惑が挙がった。また福西本人も手に当たった感触が有った。ラッキーなゴールだね(後日談)と語っている。(その試合で主審を務めていた岡田正義の記事も参照されたい)
1992年に天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯を制覇し、前身の日産自動車時代と合わせて連覇を達成しているが、その後は同大会での成績は振るわず、アップセットを演じられることもしばしばある。近年では、Jリーグカップ|ナビスコ杯を制した2001年にJ1に復帰した京都サンガFC|京都パープルサンガに負けたこと、リーグ戦完全優勝を果たした2003年の船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校戦でPK戦まで縺れ込んだこと(PK戦で勝利)、また、翌2004年にJリーグチャンピオンシップ|チャンピオンシップを制した後、当時日本フットボールリーグ|JFL(ただし、翌年のJ2参入は内定していた)のザスパ草津戦でゴールデンゴール|Vゴール負けを喫したことなどが記憶に新しい。
神奈川県内の4チームで唯一J2を経験していない。クラブの歴史
前身
1972年、神奈川県横浜市で「日産自動車サッカー部|日産自動車FC」を設立した。読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)を参考にユース(高校生)などの下部育成組織を早くから整備。日本サッカーリーグ|JSL1部は、1979年|79-1980年|80年に昇格。日本初のプロ監督・加茂周のもとチームは上位を必ずキープし、1988〜89年度の日本サッカーリーグ|JSL、JSLカップ|JSL杯、天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯の当時の日本サッカー主要大会三冠を達成した。金田喜稔や水沼貴史、木村和司、井原正巳など数々の日本代表を輩出してきた。名門である読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)との対決は、「黄金カード」として、日本プロサッカーリーグ|Jリーグでも、人気カードとして愛されていた。しかし、2006年はヴェルディがJ2に降格、天皇杯でもヴェルディが早期敗退した為、伝統の一戦が27年ぶりに行われなかった。 1991年-1998年(横浜マリノス時代)
1991年に、Jリーグ加盟。1993年5月15日の1993年Jリーグ開幕節|Jリーグの開幕試合(対・ヴェルディ川崎戦)を2-1で制した。当初はヴェルディとの2強と見られながら、実際にはヴェルディ川崎の2連覇を許し、さらにステージ優勝も1993年のJリーグ|1993年の鹿島アントラーズや1994年のJリーグ|1994年のサンフレッチェ広島にさらわれた。しかし、1995年のJリーグ|1995年にはシーズン途中で就任した早野宏史監督の指揮でJリーグチャンピオンシップでヴェルディを下し、リーグ初優勝を果たした。これは、アルゼンチン人のホルヘ・ソラリ監督が進めるチーム改革に対するベテラン選手の反発が2年目のGK川口能活の抜擢を巡って表面化し、先発から外された日本代表GK松永成立の鳥栖フューチャーズ(ジャパンフットボールリーグ(JFL)所属)への移籍、さらにその直後のソラリ監督の退団という激動を収拾した結果であった。ただし、その後はアントラーズやジュビロ磐田の台頭を防げず、覇権はマリノスの手を離れた。1999年のJリーグ|1999年のシーズンから、同じ横浜市をホームタウンとしていた横浜フリューゲルスを吸収合併し、現在の名称となった。これは、従来は日産自動車が100%出資していた運営会社「横浜マリノス株式会社」に、フリューゲルスの親会社だった全日本空輸が資本参加し、70:30の資本比率にする形で実現した。「F・マリノス」の「F」は、横浜フリューゲルス(FLÜGELS)の頭文字から取ったものである。なお、フリューゲルスはマリノスのチーム史では傍系(別チーム)として扱われるので、フリューゲルスの優勝回数や個人賞などの記録はマリノスに通算されない。 1999年-2002年(横浜F・マリノス初期)
2000年に5年ぶりとなる1stステージでの優勝を果たしたが、2ndステージ優勝の鹿島アントラーズとのチャンピオンシップに敗れ、年間チャンピオンにはならなかった。2001年シーズンは、主軸の三浦淳宏、柳想鉄の移籍もあって、1stステージでは16チーム中15位という不本意な成績に陥り、Jリーグカップ|ナビスコカップで初優勝を飾る一方で、まさかの残留争いに巻き込まれ、最終節に漸く残留を決めた。この戦績に日産の社長のカルロス・ゴーン|ゴーンが激怒。翌年、ステージ優勝または年間3位以内でなければチームを解散させる、と発言したという報道も一部あり、サッカー好きが行き過ぎた冗談とも取れたが、チームは存続の危機に立った。しかし、その翌2002年、東京ヴェルディ|東京ヴェルディ1969から中澤佑二、ジュビロ磐田からは奥大介(レンタル)、清水範久、コンサドーレ札幌からは、ウィル・ロブソン・エミリオ・アンドラデ|ウィルなど各チームの主力選手を補強し、2002年シーズンの1stステージは2位と好発進した。この年はジュビロ磐田がJリーグ史上初の両ステージ制覇を達成したため、チャンピオンシップに出場せずに年間総合順位が2位となり、ステージ優勝こそならなかったもののゴーン社長の気まぐれ解散の可能性は消滅した。 2003年-2006年(岡田政権時代)
2003年、監督に岡田武史を招聘し、この年J2へと降格したサンフレッチェ広島から久保竜彦を補強。1stステージを制し、2